学びの車窓から

小学校教員です。日々の実践、考えたことをつらつらと。

「ありかた」について考える ①

 

最近、「ありかた」という言葉をよく聞いたり、見かけたりするようになりました。

教師である自分にとって、そして働く大人たちにとって、どうありたいかというのは、

切実な問いだとひしひしと感じています。

なので、自分なりにちょっと考えてみようかと。

 

「ありかた」の意味を調べてみると、

 

f:id:south1304109:20191113081940j:image

 

https://dictionary.goo.ne.jp/word/在り方 より

 

この2つ似ているようで、違う。

 

①はつまり、「〜であるべき。」という理想像のこと。

②自分や事象がありのままの状態であること。

 

だと、個人的には考えることができると思います。

そして、僕が考える「ありかた」というのを結論から言うと、

 

自分の「ありまのままの状態」と「理想像」が一致した状態のこと

だと思っています。

 

言葉にしてみれば、当たり前ですが、この「ありのままの状態」というのは

つまり、自由の相互承認の原理を基盤に、自らの〈自由〉を文字通り、ありありと実感していることです。

そして、理想とは、「自分の欲望の最上位概念」だと個人的には思っています。

*〈自由〉と自由の相互承認については、以下の本を参照。

 

「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 NHKブックス

「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 NHKブックス

 

(これは本質観取をちゃんとしたい。もう少しちゃんと本質定義できそうですが、僕個人の思考では今のところこれが限界です。だから、まだ更新し得る。*本質観取については以下の本を参照。)

 

はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書)

はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書)

 

 

 

つまり、この理想が実現されたとき、人は自らの〈自由〉を実感し、

それはなにものにも耐えがたい、ありありとした実感を抱くからこそ、

その実感を求めて、今「ありかた」について考える議論が多くなされているのだと思います。

 

マズローが5段階欲求の最上位に「自己実現の欲求」を置いたのもこれ故では?

と心理学的にも考えてみたいところです。

(*晩年に提唱された超越した欲求についてはひとまず置いておきます。)

 

今、この世の中で、「ありかた」を求める人が多いのは、社会の変化の要因もかなり大きいと思っています。

大量生産・大量消費のモノの所有に価値が置かれた時代から、

テクノロジーが発展し、人はモノよりコト、

つまり、その人や物事に宿るストーリーに価値を置くようになりました。

AIに仕事の大半が奪われるかもしれないという議論がわき、自分が機械に取って変わられる存在になるかもしれない。

 

そんなある種、時代や社会からの承認に怯える人たちが、自分は価値のある存在だと思いたい、

この時代で自分にできることは何かと思い悩み、「ありかた」を考えるんだと思います。

 

それはより、〈自由〉に、つまり生きたいように生きたいという人の根源的な欲望です。

 

しかし、この「あり方」というのは、はじめに確認した2つの意味を混合させると、

本来、自らの〈自由〉をありありと実感し得るはずの「ありかた」が、自らを「不幸」に貶めるものへと

転換してしまうと僕は思っています。

 

 

そのことについて次はまとめようと思います。